マイノリティという枠組みが更なる差別を生むのではないかという話

昨今、「多様性」という言葉が世の中で注目を集めている。
人種や、性別の枠に捉われず、様々な価値観や個性を持った方々も、弾圧や差別を受けることなく、皆平等に扱われるべきであるといった世の中全体の風潮のおかげだろう。

その中でも、特に注目されているのが人種同性愛障がいといった、いわゆる「マイノリティ」である。
最近ではそういったマイノリティに関する話題が、テレビやネットニュースといったマスメディアでも大きく取り上げられることが増え、マイノリティに対する明確な差別というのは、実際に減少傾向にあるだろう。

こういった世の中の動きというのは、物凄く良い事であると思う反面、今のマスメディアの報道姿勢や世論が、新たな差別や、更なる分断を生んでいるのではないだろうか?と感じる事もある。

具体例を上げよう。
例えば同性愛者に関する話題だ。
LGBTQに該当する方々に対する、差別や偏見を無くそうといった動きをマスメディアが取り上げるとする。

メディアは彼らをマイノリティと題し、彼らのデモや抗議活動、実態や悩みといったものを取材し、報道する事になる。
それらを該当しないマジョリティの方々に伝えることにより、彼らに対する差別や偏見を無くしていこうという単純な話だ。

しかしいくつか疑問に思う点がある。
そもそもデモや抗議活動を行っている方々というのは、LGBTQ該当者の中でも超少数派なのだ。

僕自身がそうであるように、大多数の該当者は制度的な問題や批判的な意見など、そんなものはどうでも良いという風に思っているかもしれない。
それをあたかも全該当者の意見かの様に取り上げる事によって、該当者全員に対する、新たな偏見といったものを生み出してしまっていることにはならないだろうか。

それから、デモや抗議が行われるという事は、非常に残念な事ではあるが、批判的な意見を持つ方々もいるという事である。
にも関わらず、そういった活動を無理に取り上げるというのは、更なる分断を助長する事に繋がる危険性もある。

また、「マイノリティ」や「LGBTQ」の様な枠組みを設けることにより、何も特別では無いのに特別視され、「普通では無い人達」や「可哀そう」といった見方をする方々が出てくるのも事実である。

これはパラリンピックに何度も出場をしている、車いすテニス選手の国枝慎吾氏の話になるが、彼は「車いすなのに凄い!」といった様な事を言われるのが物凄く嫌だという。
一人のテニスプレイヤーであるのに、「車いすなのに」や「障がい者」なのにという枠組みを設けられて評価をされたくないという理由からだ。

上の例でも、同じような事が言えるだろう。
「マイノリティ」や「LGBTQ」といった枠組みを設けることにより、新たな偏見が生まれ、普通とは違うといった認識が広まることに繋がってしまう。

果たして、それは真の意味での差別解消に繋がるのか?
また、彼らに対する正しい理解が本当に広まるのか?といった話になってきてしまうだろう。

未だ世界では、差別や弾圧をされる方々が多く居る。
彼らに対する偏見や、新たな差別を生まない為にも、我々は、彼らに対する正しい理解をする必要があるだろう。

そして、その正しい理解をする為の知識を広める、最も重要な役割を担えるのは、マスメディアである。
真の意味での差別解消を果たし、多様性社会を実現するためにも、今後のマスメディアの動きには期待をしたい。